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day after day & 武松昭男のphoto日記

あの頃の伝え方

昨晩、季刊横濱の編集長佐藤彰芳さん、東海大学教授 水島久光さんをパネラーに招き、戦争の記録を紡ぎ、記録する者たちの姿勢や伝える意味について語り合う会に次男と参加してきました。

戦後70年の夏を迎え、70年前を現実に知る人たちは70歳を超える年齢となり、直接戦時中の記憶を語る方の言葉を聞ける時間は年々少なくなり、それは人数も同様。

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ブログでもなんどが書いていますが、私の父は3年弱のシベリア抑留を経験した後、横浜で暮らしはじめました。生活基盤を一日も早くつくるため、人のやらない仕事を選択し、街中に落ちている釘や空き缶を拾い集め、それを売り払い、やがて200名以上の従業員を抱える廃棄物処理及びリサイクル事業を運営する企業へと発展させ生涯を終えました。

70歳を過ぎてから、最後の仕事として食品の製造、加工、調理の過程で捨てられてしまうくずを、飼料としてリサイクル(再生利用)する養豚事業に取り掛かりました。

70年前の話はこどもの頃からたびたび聞かされていたこともあり、養豚事業に取り組みたいと相談というか、聴かされた時、仕事として本当にやりたかったのはこの事業かなと、思ったものです。何故かと言えば、70年前の、あの頃の話をするとき、わりとよくこの言葉を口にしていた記憶が残っているから。

「食べるのに一苦労だった」

仕事として本当にやりたかったのかどうか、これは単に私の憶測にしかすぎません。ただ、あの頃の話をするとき、「食べることに腐心した日々」が戦後の生きる原動力の一つだったのではないかと子ども心につよく残っていました。

戦時中、そして戦後は、どういう状態なのかをこども達にはきちんと想像してほしかったのでしょう。未来永劫、食べることに腐心しなくてもいい社会が続くようにと示したのが養豚事業だったのかもしれません。

もちろん、全くの思い違いかもしれません。ただ、毎年8月になると、そんなことを思い出すのです。70年前のあの頃を、父から私にはこのように伝えられたのですが、さて、私から私の子供たちに、あの頃の話をどうやって伝えればいいのか、はて、体験してないものが本当にそんな烏滸がましいことをしていいのか・・・

明確な回答が見いだせないまま時が流れてしまっています。。。
by AKIO_TAKE | 2015-08-11 07:47 | look/gaze